イカがうざかったので、少しだけ先取り。^^
直截的に布教を目的としたような作品は、
創価学会初代会長・牧口常三郎の伝記マンガ
『牧口先生』(北野英明)くらいとされている。
http://www.premiumcyzo.com/modules/member/2015/01/post_5697/
北野英明 『カレルギー伯』 より
http://www.law.tohoku.ac.jp/~tozawa/RCK%20HP/ushio.htm
手塚プロにて『どろろ』『ジャングル大帝』『あしたのジョー』等の
作画監督や演出を務めた後、29歳の時に独立して漫画家へ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/北野英明
1972年、経営難に陥った旧虫プロダクション(虫プロ)から独立した
営業・制作畑のスタッフが中心となって、
有限会社サンライズスタジオという名で創業。
https://ja.wikipedia.org/wiki/サンライズ_(アニメ制作会社)
西崎氏は虫プロ商事や自分の会社を経営するかたわら、
学会の事業にも大きく貢献していた。
というか、当時の西崎氏の一番の稼ぎ先は、
創価学会だったのかもしれない。
http://www.newyamato.com/nisizaki04.htm
「ブッダ」手塚治虫 潮出版社
http://www.usio.co.jp/html/buddha/
若かった頃、鹿島は
EUの先駆者クーデンホーフ=カレルギー伯爵の
持論であるパン・ヨーロッパ論を
ベルリンで読み感銘を受けた。
クーデンホーフ=カレルギー伯爵と交流を深めるうちに
伯爵からアジアの地域統合である
「パン・アジア」の提案があった。
鹿島が外交官を辞め
パン・アジアを旗印にして郷里の兵庫4区から立候補し、
国会への進出を試みたのは1930年であった。
(中略)
伯爵からは、何も失望することはない、
地域統合は時代の流れが来ているから
必ず実現するはずであると励まされた。
(中略)
この頃、鹿島は
パン・アジアと大東亜共栄圏を
同列に語るようになっていた。
大東亜共栄圏の建設が鹿島の20年来の持論であり、
理想であり、それを説いた者は
クーデンホーフ=カレルギー伯爵であると主張する
『帝国の外交と大東亜共栄圏』を、
1943年6月、翼賛図書刊行会から発行した。
(中略)
鹿島守之助は
戦後1951年に米国により開始された新しい技術、
原子力発電に熱心であった。
鹿島建設の役員たちは
原発のリスクを考え反対していたが、
一人熱心な鹿島守之助社長は
原発産業への参入を決定した。
原子力発電は世界で既に大きな事故を経験していた。
1952年12月にカナダのチョーク・リバー研究所で
燃料棒が溶融するINESレベル5の原子力事故が発生したのである。
鹿島建設は日本原子力研究所第1号原子炉を
日本初の原子炉として建設、
その初臨界が1957年夏に成功したとき、
鹿島は鹿島建設の会長であった。
その頃ヨーロッパにおいては
クーデンホーフ=カレルギー伯爵が
パン・ヨーロッパ運動で道筋をつけたヨーロッパの統合が着々と前進し、
1958年に欧州原子力共同体が設立された。
鹿島守之助会長は
福島第一原子力発電所1号機の
鹿島建設による受注にも尽力した。
福島1号機の着工後まもなく鹿島平和賞の授賞ということで、
鹿島・NHK・友愛青年同志会の3者で
クーデンホーフ=カレルギー伯爵を
1967年日本への旅に招待した。
(中略)
鹿島が死去する前年の1974年に
孫の渥美直紀は日本への原発導入のドン・
中曽根康弘の娘(当時NHKアナウンサー)と結婚した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/鹿島守之助
http://ameblo.jp/bunbunbunka2bunbun/entry-11863657869.html
鹿島平和研究所
彼女は、私たちを意図的に立派なヨーロッパ人、オーストリア人、
カレルギーの著作に一貫して見られる父と母に関する記述は、