新党ブームの変遷




























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非自民政権というのが
何度かあったんですが、


'55年体制を終わらせたという意味で
重要なターニングポイントとなっているのが、
'90年代の新党ブームだと思います。


新党がいきなり第一党に躍進する
というのは、難しいということで、
この当時は、社会党などとも
連立を組んだりしていました。


 → 92年以降の新党変遷図

 → 詳しい系統図

 → 民主党の系図

 → 小沢一郎の所属政党


まあこれは、金丸さん小沢さんの
交友関係の広さの成せる技というかで、
このあたりのことをハマコーさんが
自叙伝に書いて残されています。↓


新たなフィクサーが登場

先にも触れたが、新生党の旗揚げ資金として、
創価学会の池田大作名誉会長から
巨額な資金が出たという話がある。

金丸さんが溜め込んでいた金は、
検察に押収されてしまった。

池田大作名誉会長が年に集める金は、
五千億か六千億かは知らないが、
そうした巨額のものが動かなければ、
今回のような合従連衡はできなかったと思う。

少なくとも、公明党の石田幸四郎委員長や
市川雄一書記長の段階でまとまる話ではなかったことは、確かだ。

最終的には、池田・小沢会談があったと私は断定している。

公明党=創価学会と自民党との関係は古い。

私が初当選した昭和四十四年(1969年)に、
創価学会による言論出版妨害事件というのがあった。

(中略)

これ以後、宗教団体への課税問題、脱税問題、あるいは
池田会長の女性問題など、なにかことあるごとに、
公明党は田中派、竹下派と取り引きしてきた。

私は公明党対策のようなことをしていた時期があり、
そのときは、竹入委員長や矢野絢也書記長にも遠慮なくものがいえた。

私が言ってダメな場合は、二階堂進さんに頼めば、
たいていのことは話がついた。

その後、公明党とのパイプは金丸さんが握るようになり、
小沢くんがその代理で動いていた。

先に国会対策で金が動くと言ったが、公明党に対しては、
創価学会という巨大組織を背景としているだけに、
金はあまり有効ではなかった。

それよりも、やはり、言論弾圧やスキャンダル隠しのほか、
宗教団体に対する課税問題、査察問題などで便宜をはかる、
俗に言う「恩を売る」ことが中心だった。

(「日本をダメにした九人の政治家」浜田幸一・著 p.203~ )

二階堂さんについてはこちら。↓


 → 田中派が分裂 竹下派 vs 二階堂派 (Youtube)


一人でいっちゃダメなんで、
みんなで出ていったんですね。


小沢さんと金丸さんとは、
ゼネコンの創業家との縁戚などで
深く結びついているんですが、


 → 家系図はこちら


金丸さんによると、
ため込んでいたとされる60億円は、
「政界再編」のためのもので、


ハマコーさんによると、
小沢一郎を中心とした新党の準備金として
プールしていたんだろうというんですね。


金丸さんの金庫から出てきた無刻印の金塊も
この中に含まれているとおもうんですが、
これは北朝鮮からのプレゼントだといわれていて、
このふたりと仲のいいゼネコンがその昔、
北朝鮮でダムの建設をしたことがあったとかで、
玉砂利の利権だとかがあるとかいわれていました。


'90年代の自社さ政権などを経て、
自公政権へと移って行くんですが、
非自民政権の後継ともいえる民主党が
その後、なかなか政権を取れずにいたのは、
この'90年代のことが尾を引いているような
気もしなくもないですね。


竹下さんが田中派を出ていって、
田中さんが脳溢血で倒れたときのことも書いてありますが、


小沢さんもよく似た行動を取っていて、
自自公連立政権から、自由党が離脱した次の日には、
小渕さんが脳梗塞で倒れていますね。


明智光秀じゃないですが、
このままではダメだと思うときがあるようで、
某センセーが土建屋のご機嫌を取ったりしているのも、
そういう事態を避けるためだといわれていますね。


社会党についても書いてあって、
金丸さんと田辺さんが仲がよくて、
これを引き継いだのが
梶山さんと村山さんだった
ということみたいですね。


金丸-田辺から梶山-村山へ

金丸さんと田辺さんの関係は、
私が政界入りしたときにはすでにあったような気がするが、
記憶は定かではない。

それほど、この両者の結びつきは古く、長きにわたっているということだ。

はっきりした与野党のパイプとして金丸-田辺ラインができたのは、
田中内閣時代の昭和四十八年(1973年)ごろだ。

金丸さんはその前年から自民党国対委員長だったが、
当時、田辺さんはまだ社会党の国対委員長だった。

この二人はウマが合い、急速にその関係を深めていった。

社会党の「審議拒否」が日常化するのも、
金丸-田辺ラインができてからだ。

つまり、国対によるパイプラインが、もっぱらお金の通り道として
定着したことを意味する。

(中略)

社会党委員長に就任する前まで
同党の国対委員長だった村山さんは、
田辺さんの直系
である。

それが、金丸さんの直系である梶山君とコンビを組んだ。

このようにして、金丸-田辺ライン
梶山-村山ラインに受け継がれた。

村山執行部の誕生は、田辺さんが力を盛り返して
院生を敷いたと見ていいだろう。

(「日本をダメにした九人の政治家」浜田幸一・著 p.188~)

金丸さんを訪朝させたのが田辺さんで、

田辺は、同じ国対族で親交の深かった金丸に声をかけた。

北朝鮮が政権与党と接点を持ちたがっていることを紹介し、
金丸にも注目していることを伝えた。


そのあと、金丸さんが逮捕されて、
例の金塊が出てきたということみたいですね。


細川さんの日本新党については、
小池さんのお父さんだとか、
中曽根さんの取り巻きが多いのが
奇妙だと書いてありました。


 → 新党各党が躍進 (Youtube)
 → 細川政権の誕生を伝えるニュース (Youtube)

 → 細川首相 8ヶ月で退陣 (Youtube)

 → 村山内閣の誕生 (Youtube)
 → 住専国会と村山内閣総辞職


細川さんといえば、
オレンジ共済の時に秘書をしていた
初村謙一郎さんの息子さんが
安倍晋三の秘書をしてましたね。


三塚さんや中曽根さんのことは
個人的に気に入らなかったようで、
国鉄用地の話だとかも書いてありました。


このブログでよく出てくる「新進党」は、
羽田孜の「新生党」が母体となっていて、
結党されたのは、村山内閣が発足して間もない頃で、
ここで細川護煕の「日本新党」や、
公明党 (この当時は「公明新党」) が合流しています。


 →「新進党」の結党大会 (Youtube)


初代代表は、日米構造協議海部俊樹で、
次が、その当時、幹事長だった小沢一郎です。


 → 日米構造協議の首脳会談 (Youtube)


その後、ケンカ別れというか、
居づらくなった人たちが次々に離脱をして、
小沢一郎は、自民党にいた頃に仲の良かった
梶山さんや亀井さんを頼ろうとするんですが、
これがよけいに反発を招いて、
解党することになってしまったみたいですね。


その後、
橋本政権から小渕政権へ移る辺りで
今度は「自由党」( Liberal Party )
が結党されています。


橋本政権は、新進党と激しく対立していて、(一龍対決)
ポスターに書かれていた「ひとつの宗教団体」というのは、
創価学会のことです。


 → 橋本政権の選挙CM (Youtube)


'90年代に生まれたおもな新党は、
自民党の離党組がベースになっていて、


非自民政権を作るために結集していって、
その結果、今の「民進党」に至る
ということなんですね。


本家アメリカの民主党も
ニューディールだとか、スーパーハイウェイだとか、
土建が好きで有名なんですが、
これには理由があるんですね。


新進党には、
いろんな党が参加していたんですが、
羽田さんのグループが新党を作りまくったり、
公明党のグループが分裂したことで、
ややこしいことになって、


「議員のロンダリングだ!」とか、
「政党交付金詐欺だ!」とか
いわれていますね。


それから、「公明党対策」といえば、
この人も書いてましたね。↓


「情と理 後藤田正晴 回顧録 [ 下 ]」


細川さんは、
田中角栄の誘いで
政界入りした人なんですが、


そのせいなのか、
三ケ月章さんの周辺だとか、
創価学会と付き合いのある人たちが
ちらほら目につくんですよね。


とにかくこの経世会系のグループは、
「政治と金」の話が多いんですが、


 → 経世会の系図


大した理由もなく、
付いたり離れたりしているのも、
結局のところ、金絡みなんじゃないの?
ということなんですね。


まあ、さいきんは湯河原の別荘で
陶器を焼いたりされているそうですから、
舛添さんと露天風呂に浸かって、
談笑しているのかも知れませんね。


三ケ月章






















四谷の税務署にも
田中豊さんがいましたね。


税務署の田中豊



























クリントン政権と小沢一郎との関係については、
霍見芳浩さんというニューヨーク市立大学の教授が、
「アメリカ殺しの超発想」という著書の中で
お書きになられています。


歴代の政権が「小沢レバー」を利用していたことや、
金権政治を引き継いだのが小沢一郎であること、
また、新党ブームの黒幕も、小沢一郎だと書いてあります。


創価学会のパナマコネクションで有名な本です。


防衛利権が
金丸、そして小沢レバーの
アメとされてきたカラクリは簡単だった。

自衛隊の制服組のOBと、小沢氏が牛耳る
日本戦略研究センターをみれば、それはよくわかる。

同センターは、設立当時(1980年)は設立者の金丸が会長となり、
同氏失脚後は小沢が会長をつとめている。

小沢会長の下には、理事長として
永野茂門参議院議員(新生党)がいる。(p.200)

「防衛利権は、清和会に乗っ取られた!」
という話を、ネットで見かけるんですが、
これこのとおり。↓


 →【防衛大臣の年表】


2007年に表面化した時も、
小沢さんの腹心で、創価学会員の
東祥三さん (加計学園で登場) だとかは
追求に及び腰だったみたいですね。


そして、島本氏が秘書として18年間仕えた
田村秀昭参議が立ち上げメンバーの一人として99年に作られた
日本戦略研究フォーラム」という組織があります。

山田洋行事件の頃に民間と政治家や防衛庁(当時)のパイプとして存在した
日本戦略研究センター」の後継組織ですね。


島本さんは、小沢さんの元秘書で、
田母神さんと逮捕された人です。


小沢さんは、
アメリカのお使いをするついでに、
自己実現というかにも
ご熱心だったわけなんですね。↓
九四年八月七日、日曜日、一般全国紙がないともいえるアメリカで
準全国紙の役割を果たしている新聞の一つ、ニューヨーク・タイムズ紙の
日曜版の投稿論壇が、私の小沢レバー批判を目立つように掲載してくれた。

この内容は、八月五日付の日本の英字新聞、アサヒ・イブニング・ニューズに
コラムとして載せたものとほぼ同じだった。

また、その一部は日本人向けに七月初め以来、
各メディアをとおしてお知らせしていることとも、
大筋は同じものであった。

その要旨は、「クリントン政権は村山政権に対して、
どう対応したらいいか迷っている。

これは、歴代のアメリカ大統領が、
いかに安易に小沢レバーに頼って、日本を操ってきたかの証である」
ということで、続いて「小沢氏はこれまでのアメリカの対日要求を、
自分の利権マシンとして使ってきた。

このようにアメリカは、
金権によって腐敗した日本の政治のパートナーと
なってしまっているのだった」と批判した。(p.208)


しかし、小沢一郎は、独断で三月十七日の期限を待たずに、
モトローラ社の移動電話でアメリカに全面降伏してしまった。

せっかく、盛り上がり出していたクリントンの対日貿易批判だったが、
日本は小沢氏に裏切られたのだった。(p.134)
村山連立政権の成立によって、
一応民主化二年目の幕開けには欠かせなかった
小沢失脚が達成されたのだった。

小沢氏は海部氏を自民党から脱党させ、
自民在籍のまま海部支持に引っ張り出した。

この結果、自民党から腐敗の巨悪二人と、
操り人形業界の一人が実質的に消えて、
自民党内部の大掃除が、また一段と進行した。(p.136)

ところで村山政権の成立に困惑しているのがクリントン政権だが、
これは社会党が政権の中枢に座ったせいではなかった。

自民党も社会党も、とっくの昔から政治イデオロギーはポーズだけのもので、
いわゆる五五年体制は、自社の馴れ合いだったことを承知している。

困ったのはこんどの政変で小沢一郎が失脚し、
八〇年代の自民党の中曽根政権から
昨年来の細川、羽田の反自民連合まで、
一貫して小沢氏を通して日本にアメリカの要求を
次々と飲ませてきた、
こんなに便利だった小沢レバーが使えなくなったことである。

八〇年代に始まり、歴代の駐日アメリカ大使は小沢氏という闇のチャンネルを使って、
通信、建設を筆頭に、日本市場をアメリカに無条件に
譲渡させ、
湾岸戦争で一兆五〇〇〇億円もの金を拠出せしめた。

また、ペルシャ湾の掃海に日本の海上自衛隊を派遣したのに続いて、
PKO部隊の海外派兵を、国連の隠れ蓑を使い、
アメリカの思惑通りに小沢氏はしてのけた。

九四年に入ってからは包括協議での日本の全面譲歩
そして北朝鮮の軍事や経済制裁に日本を駆り出すために、
アメリカは小沢氏に頼ってきた。(p.137-138)

小沢さんは、
自民党を出る時は羽田派にいて、
村山政権になるまでは
与党にいたんですね。


ソ連からお金をもらって
頑張っていた人もいたんですが、
冷戦が終わって、社会党も自民党も
条件闘争のようなこと以外に
やることがなくなってたんですね。


両党にとって、
いちばん重要だったのは、
西側につくか、東側につくか、
という「保革」の争いだったんですね。


東側につくと、西側とは貿易できなくなって、
東側のような社会主義国になりますから、
個人的に、捨て票として投票する人はいても、
応援までする人は、ごく一部だったんですね。


イデオロギーのせいで勝てないのなら、
保守側のリベラル政党として戦おうというのが
冷戦後の流れなんでしょうね。
 

1993年当時、
改憲に消極的な自民党の一部
社会党の若手とともに
勉強会「リベラル政権を創る会」を結成したことが、
重要な一因として挙げられるだろう。

当時「リベラル」を自称したのは
河野洋平、加藤紘一、山崎拓、古賀誠、谷垣禎一などであり、


1993年といえば、
1月にクリントン政権が発足していて、
この会が結成されたのが5月ですから、
何となく関係はしていそうですね。


とにかくその受け皿ができたことで、
自民党と社会党、この2つを
引き離すことが出来たわけですね。


閣外に出た新党さきがけ鳩山由紀夫
民主党」を作って、そこに
社会党系のグループが合流したんです。


旧日本民主党党首の孫がまた民主党を作り、
旧自由党党首側近の息子がまた自由党を作り、
保守合同を印象づける合併をして、
政権交代を実現させたんです。


 → 未成年向け 自民党の歴史 (Youtube)